1982年の映画『ブレードランナー』。その原作タイトル『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? Do Androids Dream of Electric Sheep?』は謎めいた問いかけである。
原作を読んだ者なら作者のフィリップ・K・ディックがタイトルに込めたものを想像するのは難しいことではないかもしれないが、その想像が導く思索は深遠なものになるだろう。なぜなら、それは人間を人間たらしめている本質とは何か?という哲学的難題(アポリア)だからだ。
バウンティハンター(賞金稼ぎ)である主人公デッカードは、レプリカントと呼ばれる人造人間を追跡するうちに、人間と人造人間の境界がどんどん不明になっていく。自身ですら人造人間か人間であるかを知らないレプリカントとの対照のなかで、人間の定義さえ曖昧なものになっていく。身体的な差異がないだけでなく、人間の感情や思考と人工知能の間にも明確な違いがないからだ。
しかし、人間は人造人間ではない。人造人間とは違う。
では、何が人間を人造人間と分け隔てているのか?
レプリカントは人間に、「人間という存在」の定義を迫っている。
IT化が進むなか、私たちは知らず知らずのうちに、デッカードと同様の難問を突きつけられているのではないだろうか。
つまり、電子化、システム化が、あらゆるものの再定義を迫っているのではないか?
たとえば電子書籍は、書籍そのものの再定義を迫っているのではないか?
たとえば電子マネーは、貨幣の概念そのものを変化させようとしているのでないか?
IT化によって、書籍であれば書籍の、貨幣であれば貨幣の存在証明を書き換える必要に迫られているのではないか?
私たちはデッカードが迫られた問いかけに真摯に向き合わなければならない。劇的に進化を続けるIT時代のなかだからこそ、本質的な問題を考えつづけなければ、ただ時代を後追いするしか手立てがなくなってしまうからだ。
システムとストーリーの交差する点、ヴァーチャルとリアルがクロスするポイントで、私たちはあらゆる物事の定義を再確認する必要がある。
ITは社会の多くの面を横断して発展している。ビジネスに至ってはほぼすべての業界、すべての職業を横断している。
であるならば、ITと向き合うことが、時代、社会、そしてビジネスと向き合うことと同義になるはずである。
前言になぞらえば、ITによって、時代と社会、ビジネスの本質を対象化できるだろう。そういうコンセプトのもとで、本誌「IT批評」は今号をもって創刊した。
読者にわずかでもなんらかの示唆を与えることができれば、編集部一同、望外の喜びである。