消費社会が衰退し、コミュニティの在り方が変わろうとしていた。それはゆっくりと、ソーシャルメディアという新たなネットワーク形成のプラットフォームに後押しされ、私たちは経験の延長として将来を占うことが不可能なほどの大きな変革期にさしかかっているようにみえた。
  2011年3月11日14時46分、それは日本社会を一変させる出来事だった。
  作家の村上龍氏は、この震災についてニューヨーク・タイムズ紙に寄稿したなかで、希望以外はなんでもあったこの国に、希望が生まれたと述べた。
  私たちは長い間、希望を失っていた。なんでもあるなかで生まれ育った若者が、その欲望をコンフリクトさせて消費そのものを忌避しはじめていたし、帰属すべき共同体はどんどん些末に細分化され、排外的になることでしかその存在理由を保てなくなっていた。
  たしかに、私たちに希望はなかったが、それは絶望と呼べるほどのものではなかった。ただ失望していただけであり、緩慢な退廃を予期していたにすぎない。
  そんななか、ソーシャルメディアが登場し、情報の受発信の新しいかたちを私たちに提供し、人々のつながりが現代的に更新されることで、そのなかに小さな希望が見いだされようとしていた。いや失望がぬぐい去られるかのようにみえた。
  そして震災が起きた。私たちは絶望を知ることとなった。絶望に対しては、情報も物語も希望も無力だ。すべてを失った人たちに、それはある場合、非常に残酷で脅迫的なものにもなりうる。だから、私たちは祈ろうとした。祈りは、この電子的な人々のつながりを介してくり返された。
  震災が、それ以前の希望なき私たちの社会で、ソーシャルメディアによってゆるやかに起こされていた変化を加速させた。と、同時に、ソーシャルメディアの登場によって変わらざるを得ないと思っていた旧来の仕組みや価値観を再評価させる契機になろうとしている。
  絶望が祈りを生み、その祈りのなかで、私たちはあらゆるコンフリクトをふりほどいて希望を新たに見いだそうとしている。希望は必ず物語をともなっている。そして、その物語は、新しいメディアによって表現されなければならないだろう。
  本号は、震災以前に企画され、各寄稿者の方にも3・11前に原稿は依頼されていた。しかし、震災という未曾有の出来事によって、本号に語られた議論は結果として、どれもより本質的な問題にふれたものになっている。もちろん震災そのものにふれていない記事もあるが、それらの記事は震災以前、以後を問わず本質論なのである。
  本誌はコンセプトとして最新の情報を追うのではなく、中長期にわたる変化を追う内容を目指している。震災以後のITについてふれるには、おそらくまだそこまでの視点を確保することが難しい。しかし、いずれ震災後のITについては特集をくむ予定である。
  本号では、震災によってその本質の一端を露にしたソーシャルメディアについて、まさに震災によって深められた考察がなされている。
  最後に、この度の震災により、亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げ、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

「IT批評」編集長 桐原永叔