O2Oと、情報産業からコミュニケーション産業へ進むビジネス

O2O。オンライン・トゥ・オフライン。オンラインとオフラインの接続は、消費社会にどのように影響を与えるか。オンラインとオフラインの連携は、個人とシステムのコンフリクトを解消するものなのか?

本誌編集長・桐原永叔

ネットとリアル、システムと個人
引き裂かれたものをつなぐO2O

  これは被災地に足繁く通いボランティア活動をしている知人に聞いた話だ。彼は、ある避難所に食料を支援物資として届けた。ところが、支援物資は一向に配られる気配がなかった。避難所の窓口に尋ねると次のような返答だったという。
「避難されている方は150人ほどいて、物資は100しかありません。不平等をつくることはできない。だから配布を控えている」
  その後、彼は避難者のある男性からこう言われたという。
「オレたちをもっと信用してほしい。150人に100個しかなくても、年寄り
や子どもを優先するし、みんなが同じ物を欲しがるわけでもない」
  このエピソードにあるのは、システムと人間のジレンマである。こうした問題は、制度や法で解決するのか、個人の意志(努力)や想いによって解消されるのか。避難所だけでなく、社会の問題はほとんどがこのようなコンフリクトを抱えている。制度のなかに解決を求めれば、議論は政治に向かうだろうし、個人にそれを求めれば、議論はリーダー論や倫理(あるいは伝統回帰や根性論)に向かうだろう。
  システムと個人の関係を、本誌今号の特集になぞらえていえば、それはビジネスモデルと消費者の関係に置き換えられる。すこし角度をかえれば、バーチャル(オンライン)とリアル(オフライン)の関係としても捉え直すこともできる。
  これらの関係の中間に位置するものとして、ソーシャルメディアがあると仮定している。そして、O2Oとは、まさにこの両者の接近・融合を促進するアーキテクチャである。

情報摂取からコンテンツ関与へ
情報のデザインからアサインへ

  1960年代後半から現在へと続く高度に成熟した消費社会のなかで、企業がつくる製品は付加された情報(記号)によって商品としての価値を問われるようになった。製品は、情報を付加されることなしに商品とはなりえなくなったのだ。
  成熟した消費社会のなかで、あらゆる産業における、あらゆる消費行動が、情報摂取になり、消費者はストイックに情報摂取に励んだ。消費行動はすべての世代の中流意識を高め、各世代グループ内の関係維持を支え、アイデンティティとなるものだったからだ。
  とはいえ、消費社会における情報は企業から一方通行にバラまかれていたにすぎない。消費者は、層やセグメントとしてしか存在しなかった。マーケティング関係者にとって、消費者は顔のない存在だった。長らくは、それが通用する時代でもあった。
  ソーシャルメディアが登場して以降、消費者の顔が見えるようになった。もはや情報をパッケージしただけのコンテンツには満足しなくなった消費者は、いかに、そのコンテンツに関与できるかに関心を移行させはじめている。
  コンテンツへの関与が、多くの消費者にとって情報摂取よりも上位のものになったのは、インターネットによって、情報摂取の能力差がある程度までフラットに均されたせいもあるだろう。今や、コンテンツへの関与の度合いによって、消費者間のコミュニケーションは深められ、消費者はエンパワーメントされている。消費者はコミュニケーションを更新するために、コン テンツへの関与の度合いを深めている。
  近年、マス広告が機能不全に陥ったのは、それがコンテンツへの関与をさせにくいものだからではないか。今号の記事に登場するオズマピーアールの一ノ瀬寿人氏が言うように、現在、多くの企業が、広告にPR的な要素を求めるようになっている。情報発信に特化された広告にある限界を、PRによって補おうという動きが活発になっているともいえるだろう。PRが広告と異なるのは、直線的に情報を伝達するのでなく、社会とのリレーションを重視し何らかのコミュニケーションを介在させて情報を伝達 しようとする点にある。
  企業も今、消費者に対し指示・誘導をはかるような情報発信に苦慮している。指示・誘導のスタイルを洗練するために、いくら情報のデザインに心血を注いでも効果は大きくなく、誘導に対するインセンティブにさえ消費者は動かなくなっている。
  いくつかの企業が、消費者に対し情報を発信するのではなく開示し、アサインを見返りに、消費を促進するような方法をとりはじめている。ゲーミフィケーションが示すように、消費者はアサインによって没入する。アサインが、コンテンツ関与の度合いを深めるのは言うまでもない。
  それは、企業組織が業務に社員をアサインすることでモチベートすることとほとんど同じだ。そうしてみると、企業が消費者にアサインすることを進めれば、おそらく企業の内側と外側は接点を増やしていき、いずれ間の壁は溶解していくはずである。この溶解は、企業内においては社内制度と社員の関係を一変させうるし、企業外では既存のビジネスモデルと消費者の関係を一変させうる。
  ソーシャルメディアとO2Oがシステムと個人を接近・融合するものとなると述べたのは、こうした点でもだ。

コミュニケーション産業の時代
マネタイズしにくいものの価格

  故・梅棹忠夫が世界でも最も早く「情報産業」を論じたのは1963年、今からちょうど50年前である。現在、情報産業は梅棹が予測した段階から次のフェーズに移行しはじめている。情報産業の第2フェーズとしての「コミュニケーション産業」の萌芽の時期なのだ。ITをICT(Information and Communication Technology) と呼び換える動きがあることも、その一部であり、海外ではICTのほうが定着しはじめていることをみても、情報産業はコミュニケーション産業へ移行しているようだ。
  そして、企業の関心は情報パッケージとしてのコンテンツをマネタイズすることから、コンテンツをとりまくコミュニケーションをいかにマネタイズするかに向かっている。しかし、それは容易なことではない。
  かつて、最も情報産業化が進んだ業界にあり、コンテンツビジネスの雄であったレコード会社の衰退から考えてみればよい。レコード会社は、コンテンツをマネタイズするためにレコードやCDという商品を売っていた。消費者のニーズはコンテンツにありながら、価格はCDなどの製品によって定められていた。コンテンツは価格がつきにくいものだからだ。そのうえ、日本独特の定価という商習慣がコンテンツごとの価値を隠蔽さえしていた。
  コンテンツがそうであったように、コミュニケーションにも価格はつけづらい。製品がコンテンツのマネタイズを代替したように、コミュニケーションのマネタイズを代替するものは何か。それは、場所か、時間か、催事か。そこで発生するコミュニケーションから対価を得る方法をどの企業も模索しはじめている(その意味でアイドルグループの握手券、投票券へのビジネス界からの批判は的外れで、試行錯誤に対する怠惰だと言いたくなる)。これまで、商品を売るために場所も時間も催事も企業が無料で提供していた場合が多いだけに、難しい課題だ。
  課題はそれだけではない。その価格をどのように決めるのかも重要だ。梅棹は、情報のような値段のつきにくいものへの価格設定のヒントとして「お布施」という考えを示している。宗教家へのお布施や寄進の値段を決めるのは出し手と受け手の社会的な地位だと言う。それは、コミュニティなどの集団内における関係が、価格の基準になるということとも言えるだろう。
  世代やジェンダーを消費者の属性としてセグメントしマーケティングしてきた多くの日本企業は、ここに至って消費者との関係(コアファンとの関係と、たとえばアンチといわれるような相手とでは関係がまったく違う)に対するセグメントに取り組まざるをえなくなっているのではないか。しかし、そのセグメンテーションから価格設定のロジックを導くことはできるだろうか。ある程度はできるだろうが、これまでのように定価という商習慣はまったく通用しなくなるだろう。価格は、消費者とのコミュニケーションの濃度や距離によって、個々に決定されるものになっていくだろうからだ。もはや価格設定のロジックはB2Cというより、B2Bのそれに近くなっていくのではないか。B2CビジネスとB2Bビジネスの接近・融合さえ、ここに見えてくる。
  B2CのB2Bの比ではない決済数を考えれば、価格設定のオペレーションを技術的に支援しうるのはO2Oしかない。
  O2Oは、今後、アーキテクチャとしてバーチャルとリアルのコンフリクトの解消に集中するだろう。その先に、スマートフォンという個人のアイデンティティを拡張するツールを手にした消費者を、ビッグデータという巨大なシステムが呑み込み、より強固な融合を生むだろうか。それは、システムが個人に支配的にふるまった、これまでの歴史の繰り返しのようでもある。いや、それとも消費者個々がシステムそのものを内側からポリフォニックに改変しうるような新たな連帯を生むのだろうか。
  すくなくともこの数年間は、ビジネスモデルと消費者の関係、システムと個人の関係はかつてないほどに変化しやすいものとなるだろう。お互いに計り知れない影響を与え合い、同時多発的で自由な反射をくりかえし、さまざまに光と影を生みながら、まったく予期せぬ喪失と獲得を経験し、オンラインとオフラインは大きな変化を遂げていくであろう。